子どもの声をどう捉えるか

インターネットやSNSの普及によって、何か特定の問題に苦しむ人がその問題について自ら告発する事例が増えてきました。最近では子どもの貧困やシリアの空爆被害などについて、当事者の子どもたちが声を上げたことは大きな注目を集めました。

 こうした当事者の声はインパクトが強く、人々の関心を惹きつけるのに有効です。しかし上に紹介した事例については、数多くの批判や憶測が寄せられたのも事実です。「もっと深刻な状況で生活している子どもはいる」だとか「何らかの政治グループが彼女を利用しているのではないか」といったものです。批判や憶測の内容はともかくとして、当事者の声に対しては一定の疑念があるようです。では批判や憶測を投げかけている人たちが主張しているように、彼ら/彼女らによる告発は全面的に信用して良いものなのでしょうか。あるいは他者が彼ら/彼女らに代わって語ることは倫理的に正しいことなのでしょうか。今回のコラムではこれらの問いに注目しつつ、私たちが何かの問題に苦しむ「子どもの声」をどのように捉えていくことが出来るかについて考えていきたいと思います。

 

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当事者の「誰」が告発者になるのか

 

 性的マイノリティーであるLGBTの人々が抱えている困難が、当事者によって明らかにされることが増えてきています。ただし大抵の場合、「理解してくれない親や友人との関係について苦しんでいること」に問題が集約されてしまいがちです。しかし実は、LGBTの人々が抱える問題は多様なのです。

 このように「LGBTの人=家族や友だちとの関係に悩んでいる」と単純化しがちですが、「LGBTの人が抱えている困難や置かれている状況は人によって全く異なっている」ということについて、全ての人が自覚する必要があります。同じマイノリティグループだからといって、グループ内の人々が全て同じ事情を抱えているとは限らないのです。

 同様に、ある問題について当事者が告発するといっても、当事者1人1人が経験しているのはあくまでも問題の一部分に過ぎないのです。

 ある問題について人々がほとんど知らない時期の場合、当事者による告発は大きな力を持ちます。例えば、「見えにくくなっている」と言われる現代の貧困や遠い土地の空爆被害についての当事者による告発が反響を呼んだことが思い出されますね。この時期に必要なのは、できる限り多くの当事者を集め、自分たちの苦しみを1つのものとして描くことです。そうすることで「これだけの人が、こんなにも苦しんでいる」ということが分かりやすくなるからです。これらの過程を通して当事者らは、社会に理解してもらいやすい「主流の語り」を形成していくのです。

 社会に理解され始め、告発する当事者らも増えてくると、「主流の語り」はより多くの力を持ち始めます。この段階ではもはや当事者らの経験が「主流の語り」を作るというよりはむしろ、「主流の語り」に合わせて当事者らの経験が解釈されるようになってしまいます。そして「主流の語り」に合わせられない経験は無視されがちであり、「主流の語り」に近い経験を持っている人を中心にして集団内での力の差異や序列が見られ始めます。

 こうした過程を経て、問題が社会的に認知されてくると、誰が最も「正統な告発者」になるのかという代表性に関する論点が浮上してきます。普通、集団内で力を持つ当事者が告発者として選ばれるのですが、ここである疑問が生じます。「代表として語ることの出来るような「恵まれた」人が、他の同じ問題に苦しむ人の経験を正しく理解し、表現できるのだろうか?」というものです。ある問題を社会に知らしめるためには、その問題に苦しむ人の声を集めることが重要ですが、そのことは同時に、苦しみの多様性を失わさせてしまったり、苦しみの深刻な事例を表出させにくくなってしまうという葛藤も孕んでいるのです。

 

 

非当事者が当事者を代弁することの「正しさ」について

 

 ここまで当事者らの告発によって、ある問題が社会問題へと変貌する過程で生じる葛藤について見てきました。では当事者によって告発することに困難があるならば、非当事者が当事者に代わって告発することには困難がないのでしょうか。以下では非当事者と当事者の関係について考えてみましょう。

 この問題を考えるにあたって、ガヤトリ・C・スピヴァクの「サバルタンは語ることができるか」という文献は大きなヒントを与えてくれます。

 インドには「サティー」という風習があります。「サティー」は「寡婦殉死」と訳され、夫に先立たれたヒンドゥー教徒の妻が夫の火葬のための薪の上に登り、そこで自身を犠牲に供することを指します。スピヴァクは「サティー」をめぐり誰が何を語っているのかに注目し、当事者であるヒンドゥー教徒の妻と、非当事者であるイギリス人男性やインドの土着主義者(※)の関係を論じています。

 「サティー」を廃止した植民地時代のイギリスの男性らは「茶色い女性たちを茶色い男性たちから救い出す白人の男性たち」として讃えられれ、「サティー」の復活を目指したインドの土着主義者らは「女性たちは実際に死ぬことを望んでいた」と主張しました。両者の意見は全面的に対立していますが、両者に共通していることが1つあります。それは両者の論拠を遡ってみても、女性たちの声や意識を発見することができないということです。インド人女性がイギリス人男性に助けてほしかったのか、あるいは本当に死ぬことを望んでいたのかは明らかにされていません。当事者である女性の声や意識が顧みられることは一切なかったのです。非当事者らは当事者を置いてけぼりにして議論をしていたのです。このような議論は、道徳的にみて「正しい」あり方と言えるのでしょうか当事者が声を上げない/上げられない空間を、健全であるとは表現できないでしょう

 イギリスがインドを植民地支配した19世紀中ごろは、フェミニズム運動が台頭し始めるよりも半世紀近く前の時代であり、女性の声や意識が配慮されなかったのは当然であると考えられるかもしれません。

 一般的に、現代は150年前の当時に比べ社会的弱者への配慮がなされているとされます。しかし私たちは本当に、当時のイギリス人男性やインドの土着主義者と違って、社会的弱者への配慮ができているのでしょうか。

 

※土着主義者…伝統的なインドを取り戻そうとする人々のこと

 

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「子どもの声」をどう捉えるか

 

 ここまで、当事者の声をもとに社会問題を警鐘を鳴らすことの問題点や、非当事者が当事者の声を代弁することの問題点について検討してきました。そして現代に生きる私たちは、社会的弱者の声や意識に配慮できているのかについて疑問提起されました。この問題を「私たち大人が子どもに関わるとき、彼ら/彼女らの声や意識に十分に配慮できているのか」という形に置き換えて考えてみましょう。

 子どもは大人へと向かう発展途上の存在であって、言葉についても完全には習得していません。この点において子どもは当事者として十分に語ることができない存在である正当に語ることができない存在と言えるでしょう。

 昨今では子どもの権利が謳われ、教育実践においても子どもの視点に立つことの重要性がますます高まってきています。こうした動きは「子どもたちの声や意識に配慮しようしているかに見えます。しかしそうした動きを社会学者の大澤真幸は鋭く断じます。つまり「自分自身のアイデンティティを規定する視点から一旦離脱する飛躍を介さなければならない」ものの視点に立つとき、「その飛躍は、善意とはまったく無縁なものである」のです(大澤, 1996)。言い換えるならば「大人としての目線から子どもとしての目線に降りようとする行為に善意はなく、自己満足に過ぎない」というところでしょうか。

 「子どもの声」はどのようにして扱われるべきなのでしょうか。語るべき言葉を獲得する途中である子どもたちは、自分たちのみでは語ることはできませんし、そこに存在する問題点は確認してきた通りです。だからといって大人たちが子どもたちの声や意識に全く配慮しないことは、一種の不健全さを伴います。そうであるならばと大人が子どもの視点に立って、子どもたちに配慮しようとすることは自己満足として切り捨てられてしまうのです。まるで救いのないように見えるこうした状況において、私たち大人は子どもたちとどのようにして関わるべきなのでしょうか。子どもたちや教育に関わる一人一人が、自分なりの答えを考えていきたいですね。

 

参考文献

Diana, Rose, 2006, Who decides what evidence is? Developing a multiple perspectives paradigm in mental health

 https://goo.gl/jps9QN

ガヤトリ・C・スピヴァク, 1998,『サバルタンは語ることができるか』みすず書房

 https://goo.gl/RI85xa

木村涼子, 2011, 「ジェンダーの視点からの教育」平沢安政編『人権教育と市民力 ―「生きる力」をデザインする― 』解放出版社

 https://goo.gl/qrWxXD

北中淳子, 2016,「語りに基づく科学 当事者/科学者の誕生」『現代思想』2016年9月号, 青土社

 https://goo.gl/sA8j1o

大澤真幸, 1996,「語ることの(不)可能性」『現代思想』1996年4月臨時増刊号, 青土社

 https://goo.gl/hR3PMu

小玉亮子, 1996,「「子どもの視点」による社会学は可能か」井上俊他編『岩波講座現代社会学12; こどもと教育の社会学』岩波書店 pp.191-208

 https://goo.gl/RtYGzF

元森絵里子, 2009,『「子ども」語りの社会学』勁草書房

 https://goo.gl/dpfctx

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