AI時代に教育は何を目指すか

スクリーンショット 2017-06-15 11.24.19

 

つい先日、世界最強の棋士がAI(人工知能)に敗れるというニュースが報じられていました。知性と知性のぶつかり合いとも言える一戦でAIの方に軍配があがった。偶然と言ってしまえばそこまでかもしれませんが、いろいろと考えさせられることの多い出来事だったのではないでしょうか。

このようにAIが未曾有の 発展を見せるなか、AIによって社会が変わるという議論もあちこちで行われるようになりました。もちろん教育も例外ではなく、「AI時代に生き残るためには○○力が必要だ!」という類の話はいろんなところで耳にするようになっています。

 

そんな中、以前ある子どもに次のようなことを尋ねられました。

 

AIにすべて任せてしまえばいいのに、なんで勉強しないといけないの?」

 

この素直な疑問を前にして、言葉に詰まります。

 

確かにAIがすべてやってくれるのであれば、極論を言うと人間は何も学ばなくても生きていけます。AIによるほぼ間違いのない翻訳技術などはそのいい例です。

子どもは無理に努力してまで勉強することの意義を見出すことができず、そしてまた教える大人もこの疑問に対して誤魔化しの解答しか与えられないのであれば、本音では教育する目的を見失ってしまっているのかもしれません。「○○力」という曖昧な言葉があちこちで騒がれているのもその一つの表れのように見えます。

そこで今回は「AI時代に教育は何を目指すか」と題し、どうして今このような状況にあるのか、またこれからのAI時代の教育が持ちうる方向性について考えてみました。

 

 

これまでは何を目指してきた?

 

スクリーンショット 2017-06-15 11.25.18

 

なぜ教育の目的が見失われつつあるのかという話に入る前に、これまではどうだったかについて少し見ていきましょう。

これまでは教育する目的はある程度はっきりしていました。一言で言ってしまえば、「(動物とは違って)人間らしく生きるため」です。

例えば人間とそれ以外の動物とを比べてみます。

地球上何千万種という生き物がいる中で、「親が子を育てる」というのはかなり稀なケースとされています。基本は産んだらそこでお別れで、生まれた瞬間から本能の赴くままに独力で生きていく。過酷ではありますがそれが大多数の生き物の姿です。

それに対して私たち人間はどうでしょうか。答えは明白ですが、生まれたばかりの赤ちゃんに自力で生きることを強要するなんて口にするのも恐ろしいほどです。

生まれながらに本能で生きていくことができないというある種の人間の弱さ。ドイツの哲学者で社会学者のアルノルト・ゲーレンは、そのことを理由に人間を「欠陥生物」と呼びました。

しかし他方で彼は、人間はその欠陥を補うためにこそ、教育を含む高度な独自の文化を築き、動物とは異なる人間らしい生を営むことが出来る、としています。必ずしも欠陥が悪いと言いたいわけではなさそうですね。

このように少なくとも近代教育の文脈においては、「人間らしく生きるため」、つまりいわゆる野生的で本能でしか生きられない動物とは対比される形で「知性的で自律的に生きるため」に教育が必要とされてきた、といえるのでしょう。

 

 

人間らしさを見失う私たち

 

スクリーンショット 2017-06-15 11.26.03

 

しかし、最初に話にあげた囲碁戦を思い出してみてください。

「知性と知性のぶつかり合いとも言える一戦でAIの方に軍配があがった」

今見てきたように、もし知性や自律性のみが「人間らしさ」だと言うのであれば、この囲碁の例からすると、もはや「AIの方がよっぽど人間らしい」という事態になりかねません。

また実際そうなりつつある事例も多く、例えば人間よりも上手に翻訳できるAI、あるいは人間よりも事故なく安全に運転できるAI、等々がそのいい例でしょう。

とすれば、人間らしさや人間性とは一体何なのかが甚だ疑問になってきます。

これまで人間らしさは動物との対比によって根拠づけられていましたが、もしAIに簡単に取って代わられてしまうものであるなら、それはもう(人間独自の)人間らしさとは言えません。

 

人間らしく育つことを目指してきた教育がその目的を見失いつつあるという事態。それはAIの急激な発展によって、人間らしさとは何かが分からなくなってきたことが背景としてある、といえるのかもしれません。

 

 

岐路に立つ教育

 

スクリーンショット 2017-06-15 11.26.36

 

ここまで、AIの発展によって「人間らしさ」が見失われた結果、それを育むことを目的としてきた教育の意義も同時に見失われて来てしまっている、という話をしてきました。

このような状況において、教育はある種の岐路に立たされています。

その岐路とはつまり、①AIと競争して勝てる人間を育てるか、それとも②AIとは別の人間らしさを模索し育むか、という分かれ道です。

「AI時代に生き残るためには○○力が必要だ!」という主張は前者に位置するでしょう。

急激に変化する社会についていくためにはこれまで以上に様々な能力を身につけねばならない…。もちろんそれもある程度は必要だと感じる一方で、全ての人がそれを達成できるとはとても考え難い、というのが正直なところです。特に、万人を対象にする公教育がこの立場に立ってしまうと、かなりの息苦しさが広がってしまいます。

そうなると、もう少し光が当たってよいと思うのは後者、つまりAIとは別の人間らしさを模索し育む、という道です。

今から40年も前、生態学者であり文化人類学者の今西錦司は、「岐路に立つ人類」という小論考の中で、機械文明の急激な発展を目の前にして次のようなことを述べています。少し長い引用ですが、ぜひじっくり読んでいただきたい文章です。

 

「技術者たちは口を揃えて、この程度はまだ序の口であり、これからいよいよ加速度的な大変化がやってくるのだという。だから、これからの人間は、この変化に耐え、これについてゆけるような人間でなければ、使いものにならないというのだ。しかし、ちょっと待ってほしい。人間には一面で安定を求める心がある。安定の予約されない、そのようないわば無限に続く変化に、はたして社会一般の人間がついてゆけるだろうか。」(今西錦司. 2014 『岐路に立つ自然と人類:「今西自然学」と山あるき』p.116)

「たしかに理性の存在は、人間を特徴づけるものであるが、理性というものも、もともとは人間が生きてゆくための適応として、発達したのであって、人間のために理性があり、理性のために人間があるのではない。ということは、人間が生きてゆくためには、理性ばかりでなく、他にも必要なものがあるということである。」(同書. p.117)

 

「人間らしく生きるため」に教育が行われてきたという話をしてきましたが、知性的・理性的で、力のある状態だけが人間らしいのかどうかには、少し疑いを持たなければならないのではないでしょうか。今西が述べるとおり、人間らしく生きるということはきっとそれだけではないはずです。

 

AIにすべて任せてしまえばいいのに、なんで勉強しないといけないの?」

もちろんここで模範解答を示すことなど到底及びませんが、この問いかけは教育に関わる全ての大人に向けられているように思われてなりません。

 

さて、皆さんならどのように答えますか?

 

 

【参考文献】

「最強棋士・柯潔、囲碁AI「AlphaGo」に敗れる。だが開発者は「人間の勝利である」と言う:初戦現地レポート」WIRED. 2017年5月23日更新(最終閲覧日:2017年6月14日)

http://wired.jp/2017/05/23/future-of-go-summit-day1/

H.L.ドレイファス 他(1987)『純粋人工知能批判ーコンピュータは思考を獲得できるかー』アスキー出版局.

A・ゲーレン(1985)『人間:その本性および世界における位置』法政大学出版局.

今西錦司(2014)『岐路に立つ自然と人類:「今西自然学」と山あるき』アーツアンドクラフツ.

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA